2013年02月19日

京都の昔の名前は?平安京ですよね。その前は…山背国葛野郡宇太村?


大文字火床から見た京都市内 奥のほうに見える街中の緑が京都御苑

ずっと京都に住んでいますが、
平安京の前の名前なんて全然知りませんでした。

もともとは山背国葛野郡宇太村(やましろこくかどのぐんうたむら)
と言ったそうで、現在のJR二条駅北周辺だそうです。
(参照)ほんものの京都企業 なぜ何百年も愛され続けるのか - 竹原義郎 - Google ブックス

その場所と言えば、京都の方ならわかると思いますが、
要するに千本丸太町周辺で、大内裏が置かれたところですよね。
大極殿跡碑もありますしね。
上京施設データ おこしやす上京


歴史を簡単に紐解くと、
平城京の時代(奈良時代)の終わりごろは、
肥大化した奈良仏教各寺の影響力から逃れるため、
桓武天皇の時代に長岡京に遷都されます。(784年)
(参照)桓武天皇 - Wikipedia

長岡京は桂川や宇治川が合流して淀川となる水上の便の良い土地でした。
陸路を使わざるを得なかった平城京の問題を解決し、
船で効率よく物資を運ぶことができたそうです。
(参照)長岡京 - Wikipedia

ですが、桓武天皇が留守の間に、
藤原種継が造宮監督中に矢で射られ(785年)、
暗殺犯として大伴竹良らが逮捕され、
事件前日に亡くなっていた大伴家持も首謀者として官籍から除名、
さらには皇太子の早良親王にもおよび、流罪に。
(参照)藤原種継 - Wikipedia

その後は、桓武天皇の近親者の不幸が続き、
疫病に災害、大飢饉などもあり、悩まれていたそうです。

そんなとき、そのお心を察した和気清麻呂が狩りを口実に天皇を連れ出し、
現在の将軍塚から京都盆地を見下ろして、この地を進められたそうです。
(参照)将軍塚 名所旧跡めぐり
    将軍塚について 天台宗 青蓮院門跡


そこで793年(延暦12年)藤原小黒麻呂らが山背国葛野郡宇太村を、
新しい都の候補地として視察に訪れ、
その6日後には、早くも長岡京の廃都に取りかかったそうです。

山背国一帯は、中国から伝わった風水に基づく地相占いで、
「四神相応の地」により「吉」と出たことから桓武天皇はことのほか喜ばれたとか。

四神相応の地というのは、
東西南北の四方を、青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)の
4つの神が護る土地のことだそうです。
(参照)京都の暮らしと歳時記 平安遷都 … 四神と山河襟帯の地、京都

東(青龍)に川が流れ(鴨川)、
西(白虎)には大道が通り(山陰道)、
南(朱雀)に湖があり(巨椋池)、
北(玄武)に山がそびえる(船岡山)という地だったんですね。
(参照)ふだん着の京都 奥深い都を歩く 奥深い都を歩く - 槇野修 - Google ブックス


でも、都として本当にずっと栄えたのですから、すごいですよね。

ちなみに昔、石清水八幡宮で企業研修を受けたことがあるんですが、
そのときに京都は鬼門(北東)に延暦寺が、裏鬼門(南西)に石清水八幡宮がある
というお話を聞いたことがありました。

あってるのか気になって調べたら、
鬼門 - Wikipediaに書かれてました。
平城京の時も鬼門に東大寺、裏鬼門に植槻八幡宮があるそうですよ。

京都はいろんな方面から守られた都だったんですねぇ。


こちらは大文字の火床。大の字の中央部分です。
タグ:歴史 京都
posted by ポジタリアン イエロー at 13:33| ブログ
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